無義をもて義とす。

学び

ご聴聞ありがたく候😆

歎異抄にこのように記載されています。

『念仏には無義をもて義とす』

義とは「はからい」
我々の側からの「はからい」のことです。

直訳すれば
念仏は、はからいが無いことをはからいとする。
このようになります。

我々人間のはからいとは
人間の有限な智見で推しはかり
その上で自分なりに決めてしまう。
いわゆる邪見なのです。
まぁ、自分に都合良い解釈ですから
そうなりますねあせあせ (飛び散る汗)

だから、人間の「はからい」を無くすこと。
人間の「はからい」がなくなるとどうなるか❓

衆生に義が無ければ、仏の義があらわれる。
これがすなわち「無義の義」ということです。

身勝手な解釈で都合よく「はからう」のが人間。
そのような「はからい」を捨てれば・・・・
その先に真実が待ってる。ということでしょう。

他力の信心もここが肝要です。
自ら、はからわず
弥陀のはからいに、はからわれる時に
他力の信心は成立するのです。

日々、はからわずひらめき
この気持ちが大事なんだなぁと感じます。

あなかしこ あなかしこ

令和七年十二月二十五日
釋正信

🙏南無阿弥陀仏

ご質問、ご相談は info@yokihito.net 慈徳山得藏寺、僧侶釋正信までご遠慮なくご連絡くださいdouble exclamation 一人一人それぞれが誰かの善き人であるようにdouble exclamation 人生勉強の会、正信会(しょうしんえ)ご入会希望の方もご連絡ください😆共に学びましょう。

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