ご聴聞ありがとうございます。
我を失うて、受身になるところに
宗教生活の秘技がある。

毎日、良い学びがあります😆
「我を失うて」とはこういうことです。
行は自分が行じているのではない。ということです。
弥陀のはからい。ということです。
だから非行です。
同じく善も、自分で善を行っていない。
弥陀のはからいが善だということです。
だから非善です。
すでに非行・非善であるから
自分の手柄にもならないわけで
慢心の種にもならない。
他人の生活や行為を
厳しく裁いたりすることはできない。
このように私たち念仏者は
念仏を自分が唱えているのではなく
唱えさせていただいているのです。
この考えは人生を楽にしますね。
すべては弥陀のはからいですから。
弥陀のはからいであるから「善」になるのです。
そのことがわかっていない間は
悪行も平気でやってたわけです。
しかしこの悪行も気づかせるためのはからい。
そのように思います。
随分と気づくのが遅かった気がしますが😆
仏教は今日を善く生きる教えです。
ものは考えようと言いますが
そんなものではないでしょうか。
あなかしこ あなかしこ
令和七年十二月二十三日
釋正信
🙏南無阿弥陀仏
ご質問、ご相談は info@yokihito.net 慈徳山得藏寺、僧侶釋正信までご遠慮なくご連絡ください
一人一人それぞれが誰かの善き人であるように
人生勉強の会、正信会(しょうしんえ)ご入会希望の方もご連絡ください😆共に学びましょう。
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