この世に責任を負うこと

法話

その人その人で負う責任範囲は異なります。最近の人たちは個人での責任を負いたくないようです。実際に責任負う余裕が無いのもそうでしょうが。自分さえ良ければ良い。自分にマイナスになるような責任なんて負わない。こんな利己的な考え方を強く感じます。でも、人としての責任を負わないってことは信頼できませんよね。責任の負担の範囲の大きい広い人、口だけでなく本当に負担する人が世から信頼されるのは当然でしょう。『なんかあったらワシが責任とるわ‼️』って人が減ってきています。私は昔から自らの責任範囲を広げて生きてきました。責任範囲が広いのは信頼・信用にも繋がり人としてもデカくなりますから😆最近では『世の中が悪いのは私の責任だ‼️』ってそれぐらい責任範囲は広がってきました。(ウソです😆)些細な責任からも逃げ出すようなペラペラな人にはわからないでしょうね。なんといっても勤務先辞めるのも退職代行会社に依頼ですから😆人として生まれた以上、人としての責任はみんなあると思うんですよね。他の生き物に対する責任とか・・・・そして置かれた立場でのそれぞれの責任とか。一度、自分にどのような責任があるのか❓考えてみたらいいと思います。この世は縁起です。誰一人、一人では生きていません。それぞれがそれぞれの環境で他人と関わっています。親の責任、子の責任、夫の責任、妻の責任、飼い主の責任、家主の責任、入居者の責任、不動産屋の責任、経営者の責任、会社員の責任・・・・って、多くの責任が存在していますよ。そう考えれば責任を逃れたくても人である以上逃れられないことだと思いませんか。それでも身勝手に自分だけ責任逃れをしますか。いくら多様化であろうと個人の権利が認められていようと責任は絶対に無くなりませんよ。人である以上この世界に責任があるのではないでしょうか。責任があることを潔く認め、人として責任ある行動をみんなができたらきっといい世になるでしょうね。
南無阿弥陀仏

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