おはようございます
仏教慈善家、釈正信でございます。
揉め事の和解合意書の作成に時が経過しています。
時がかかるとまとまるものもまとまりにくくなるんですが・・・・
まっ、任せてるんだから待つだけです
『往生要集』を購入しました。
法然聖人が「浄土門に志のある人にはまず『往生要集』によって教えなさい」と言われたようです。
その理由は、この書は人々の状態をよく考慮に入れて、どのような人にとっても難しくないように書かれているので、初心の人のためによい書だからです。しかし、この書の底にある本意は、ひたすら称名念仏一つを行ずることを勧めておられます。
要は、初心者はしっかりと読め。ってことでしょう。
さて、『往生要集』によれば六道輪廻の六道とは
地獄(道)、餓鬼(道)、畜生(道)、阿修羅(道)、人(道)、天(道)です。
その人道、人間世界は概略三つの様相に分けられるそうです。
不浄の相、苦の相、無常の相です。
その中の不浄とは、人間の身体は不浄そのもの汚いものである。という事実です。
これは外見はいかにも端正美麗で装っても身体の内部はもろもろの不浄を内包している。
綺麗に彩色した瓶に糞や汚物を盛っているのとまったく同じである。と・・・・
多少嫌な表現だなぁ。と思いはしますが、本当にそうなんだなぁって思いませんか。
私はわかる気がします。
新撰組、斎藤一も「人間は所詮、ただの糞袋である」こう吐いていたそうです。
事実はそうなのだと思います。
だからこそ、身体が不浄であるがゆえに
身体以外の思考や行動が清浄でなければいけない。
こう思うわけです。
あ〜綺麗な人だなぁ・・・・とか
わっかっこいい人だな・・・・とか
外見で判断しても所詮は不浄なものです。
そんなものより、あ〜綺麗な心を持ってるなぁ・・・・とか
かっこいい生き方してるなぁ・・・・ってのが良くないでしょうか。
仏の道もそんなものでしょう。
人として生き物の一種としてどう生きるか。
ここが清浄であることではないでしょうかね。
身体は不浄なものであっても
心は日々清く、正しく、美しくありたいと思います
不浄だからこそ、綺麗に生きるのだ
南無阿弥陀仏
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