自分基準とは自分への執着のあらわれです。

日々

さぁ、6月最終日です。
キッチリと始末してまいりましょうぞdouble exclamation

先週末、以前の職場のOB会がありました。

退職後36年ですかぁ😆

 

あんた、いくつになった❓

 

63ですdouble exclamation

 

あ〜そうなんか。
若いねぇ・・・・
まだまだ、これからですね。

まぁ、確かに80歳ぐらいの方からすれば
63なんてそうなんでしょうが😆

これは自分を基準にした判断ですね。
会話の中ですから特段問題はありませんが
世の中には自分を基準に
他人を批判する人たちって結構多いですねあせあせ (飛び散る汗)

これ、自分基準=自分への執着だと思うんです。

義弟夫婦も子供のことで悩んでいます。
子供達の考え方が自分たちと明らかに違う。
自分を基準に考えたら悩みます。
仏教的には、人の数ほど基準があります。
個々のことなのです。

しかし、この世は一般慣習や法律などあり
そこがまた問題を複雑にします。

一つ一つを明確にすべきでしょう。
世間体とか常識が
己を正当化する言い訳になってはダメです。

少し難しいですが
自分を基準にすること。
自分が常識と考えること。
一旦、横に置いて
なにが必要でなにが問題になるか❓
そして事実。
その事実をどうする❓
具体的な問題を洗い出し
どう問題解決するのか❓
あるいは解決できないのか・・・・

そこからどうしても相容れない場合は
それぞれがそれぞれとすれば
いいのではと考えます。

自分を基準に考えると
その基準から外れるものが『苦』になります。
一般常識では冷たいことでしょうが
『苦』の対象を手放すことです。

自分の常識は非常識かも知れません。
一般常識も時とともに変わります。

そう、『諸行無常』です。
『諸行無常』変わり続けてます。
一旦手放しても時代が変化すれば
帰ってくることもあります。

その匙加減でもあります。

あなかしこ あなかしこ

令和七年六月三十日
真実の信心 釋正信

🙏南無阿弥陀仏

ご質問、ご相談は info@yokihito.net 慈徳山得藏寺、僧侶釋正信までご遠慮なくご連絡くださいdouble exclamation 一人一人それぞれが誰かの善き人であるようにdouble exclamation 人生勉強の会、正信会(しょうしんえ)ご入会希望の方もご連絡ください😆共に学びましょう。

 

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