丁寧に清浄に生きる

学び

み仏の意思ははかりがたい。とはいえ、謹んで三心の願の意味を推量すれば、一切の衆生は無始よりこのかた、今日今時にいたるまで、穢れと悪に汚染して清浄の心がない。虚仮であり、偽りと諂いに満ちて真実の心がない。それゆえに阿弥陀仏は苦しみ悩む一切の衆生を憐れみ悲しみたまい、苦しみから救うために、思いはかることもできない長劫年のあいだ菩薩の行を行じたもうたのである。その間、体と口と心の三つでもって修められた修行は、一瞬一刹那たりとも清浄でないことはなかった。真実心で修行されないことはなかった。・・・・弥陀はそのような真実心(至心)を一切の煩悩・悪業・邪智の衆生に廻向し施したもうたのである。これが利他の真実心であり、衆生に至心としてあらわれるものである。(現代語訳 親鸞全集1 教行信証 上より)

私たちもこの人生、一瞬一刹那でも大切に丁寧に生きることが大事でしょう。適当に、いい加減にその時その時を過ごしては自分のためにも他人のためにもならないのではないでしょうか。丁寧に食べ、丁寧に喋り、丁寧に聞き・・・・なにをやるにも丁寧にやろう。その積み重ねが結果が、丁寧な人生になるのではないでしょうか。この瞬間から丁寧に、少しだけでも清浄に生きていこう‼️そうだ丁寧に生きるためにきちんと記録として小遣い帳(もうある)と日記ブログ(もうある)を書こう😆割と丁寧に生きてはいるんだが、もっともっと丁寧になりますよ。このブログも丁寧に記していこうと思います。

南無阿弥陀仏

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